相応しい人を尋ね出す
「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。」(マタイによる福音書 10:11-14)
イエスは十二弟子に向かって、異邦人の道ではなく、「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」(マタイによる福音書 10:6)と言われた。
イスラエルの家で失われた人たちは、イエスと弟子たちを受け入れ、家に迎えてはいない人たちのことであろう。私たちが人を自分自身の家に迎え入れることには歓迎の意が込められている。当時のみならず、今日においても、イエスの弟子たちに対して歓迎を表す人たちもいれば、拒否する人たちもいる。
だから、どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまるということはやってみないとわからない。
私たちが出かけて行くことはイエスの時代の伝道方法であり、聖書的な伝道方法とも言える。あるいは自宅を解放したり集会場所を借りて礼拝をすることも素晴らしい。いずれにせよ、私たちのもとには神が引き合わせてくださる神の平安を受け入れるに相応しい人々がやってくる。そのような人々にあったら、神の言葉を語り、ともに礼拝したい。
愛する天のお父様、あなたのもとにはあなたの平安を受け入れるに相応し人々が集められます。あなたを中心とした礼拝があらゆる場所でささげられますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
