主は私たちを養ってくださる
「すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。」(コリント人への第一の手紙 9:9-10)
「穀物をこなす」とは穀物を粉にするという意味で、製粉作業のことである。今は機械にかければ製粉作業はさほど困難ではないはずだが、かつては重労働だった。また、「くつこ(口籠)をかける」とは、動物が噛んだり食べたりするのを防ぐために、口に道具を装着することを指す。
モーセの律法では重労働をした牛にはしっかり餌を与えなさいという意味で書かれているのだろうが、それは私たち人間にもあてはまることである。特にコリントの教会の人たちに対してパウロは、働きをする人たちが報酬を得る望みを持つのは当然だと言っている。
霊のものを蒔いて、肉のものを刈り取る、とは宣教の働きをして収入を得るのは当然であるとしているが、パウロ自身は革細工工房で天幕職人の仕事をしながら宣教活動をした。
パウロは言った。「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」パウロは宣教の働きを通して収入を得る権利を持っていたが、収入を得なかったようである。
パウロは続けて言った。「また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです」(コリント人への手紙 第一 9:13-18)
収入源は主ご自身である。パウロは教会から牧師給を得ることもできたが、天幕作りの仕事から生活に必要な収入を得ていた。
もし私たちの手に職があるなら、生活のための収入を仕事から得て、教会に経済的負担をかけないようにすると良い。しかし教会が給料を出してくれるなら感謝して受け取ったら良い。主が私たちを養い、必要をすべて備えてくださるのだから、主に感謝して生活していきたい。
愛する天のお父様、あなたのあらゆる備えを感謝します。あなたが私たちのあらゆる必要を満たしてくださいますからありがとうございます。あなたに従って歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
