結婚、離婚、再婚

「次に、未婚者たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。 しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。 更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。 (しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。」(コリント人への第一の手紙 7:8-11)

結婚についてであるが、独身のままでいることが一番良い。それは結婚から起こりうるあらゆる苦悩を通らずに済み、主の働きに専念することができるからだ。だからすべての人が結婚するものではない。近年定義が塗り替えられて、結婚は聖書が定める男性1人と女性1人の結婚ではなく、多様性のあるものだと考えが広まっている。真に私たちを幸せにすることを追求するなら、私たちの創造主である神の定めに従うことが最善ではないか。結婚や人生が神の定義ではなく人間の考え方や定義に置き換える背景には、人間の傲慢さや神への反抗心、人間至上主義の考え方がないだろうか。

神の道に従うなら、独身生活も結婚生活も祝福となる。では離婚について聖書はどう教えるのか?パウロは結婚している者たちに命じて言った。「命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。 」

主にある者は、結婚の困難を通らされる時に、別れないのが最善である。もし私たちが主のもとに来た時に、「万一別れているなら、結婚しないでいる」か、それとも「夫(あるいは妻)と和解するか」が重要だ。パウロはクリスチャンの離婚を認めていない。

「一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。 イスラエルの神、主は言われる、「わたしは離縁する者を憎み、また、しえたげをもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。ゆえにみずから慎んで、裏切ることをしてはならない」。」(マラキ書 2:15-16)

離婚は結婚相手を裏切る行為である。その理由は、私たちの心のかたくなさにある。相手を愛することをやめてしまった結果が、結婚という誓約を破棄し、離婚に至る。

再婚は、死別の場合に許されている。「妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。」(コリント人への手紙 第一 7:39) 主にある結婚ということは、同じ信仰を持つ相手を指しているのだろう。

また相手の姦淫(不貞、不倫)があった場合に正当な離婚と再婚が認められる。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。」(マタイ5:32)。

さらに信者ではない配偶者が離縁を望んで去った場合、信者は結婚に縛られず、再婚も許される。「しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」(1コリント7:15)

結婚せずに独身のままでいる道も素晴らしく、結婚するのも素晴らしい。結婚したら離婚せずに愛し合う。私たちは配偶者を愛することを通して、神を愛することを学ぶことができる。そして再婚することも素晴らしい。罪を犯さずに神の祝福の中に留まり、神を愛することを学んでいきたい。

愛する天のお父様、あなたを愛します。また、あらゆる人と関わることを通して人を愛することを学ぶことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。