きよめ
「「あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、 アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。 彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。 すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。」(出エジプト記 30:18-21)
アロンとその子たちは祭司であった。彼らは会見の幕屋にはいる時、手と足とを水で洗わなければならなかった。水で洗わないで会見の幕屋に入ることは、死を意味した。衛生問題というよりは、神が定めた祭儀的な理由であり、死は神から打たれることを意味していた。
水で洗わないことが不本意あるいはケアレスミスであったとしても、神の幕屋に不浄のまま立ち入ることは許されなかった。だから神が定められたことは重大であり、守らないことは深刻な結果を招いたのである。
憐れみ深い神は、私たちの違反を意図的であったとしても見過ごしてくださる。神を悲しませる行為であることは間違いないが、私たちが直接的に罰を被ることは避けられる。だからといってその重要性が遜色したわけではない。
水で洗い清められることは、今日私たちが洗礼式の時に体験する。水で洗うことは、あくまでも象徴的なことであり、洗礼式の水そのものが清めるわけではない。私たちの信仰が私を清めるのである。
水が清めを象徴するものである。私たちはイエスキリストを信じる信仰によって清められたことを主に感謝して歩みたい。
愛する天のお父様、あなたが私たちを罪から清めてくださり、ありがとうございます。御子イエスキリストのあがないを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
