一緒に食事をする
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(ルカ15:1−2)
取税人はローマ帝国のために税金を徴収し、同胞から多額のお金を巻き上げていたユダヤ人たちである。彼らは同胞ユダヤ人たちから嫌われていた。罪人はユダヤの戒律を守らず、不品行などの罪の中にいた人々である。パリサイ人は律法を重視し日常生活で実践しようとしたユダヤ教の一派である。その中でも律法の研究と解釈に専門性を持つ指導的なエリートを律法学者と呼ばれていた。
パリサイ人と律法学者は、イエスが罪人たちを受け入れて食事までいっしょにすることに抵抗感を感じ、つぶやいた。ラビあるいはナザレ派の指導者的な立場にいながら、取税人や罪人に関わるのは言語道断と考えていた。
パリサイ人や律法学者たちは取税人や罪人を受け入れたり、食事を一緒にすることはなかった。
もし私たちがパリサイ人や律法学者に近い立場であったとしたら、取税人や罪人たちのような社会的に禁忌とされている人々と、どのように関わるだろうか?
また逆に社会的に見下され、嫌われている立場にいたらどうだろうか?出自や家族の中に事情があったとして、イエスが私たちのもとに来て、手を差し伸べ、親しく接してくださるなら、どのように感じるだろうか?
私たちは共に食事をすることで、あらゆる人々に愛を表すことができる。主が私たちを受け入れ、私たちの主となってくださったことに感謝して歩みたい。
愛する天のお父様、あなたは私たちがどんな背景をもっていようとも、私たちを愛し、受け入れてくださいました。ありがとうございます。あなたに従って歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。