愛によって働く信仰

「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」(ガラテヤ人への手紙 5:6)

イスラエルの民は、モーセの律法に従って割礼を施し、それを同胞に押し付け、体のしるしを持って神の民であるとした。

しかし、ここに矛盾が生まれた。律法の一部を強要したが、律法全体を理解せず、守ろうとしなかった。律法は一部だけ守っても救いは得られない。むしろ逆に宗教的になり、他人をさばくようになってしまう。

私たちは御霊の助けにより、信仰によって義とされるのであり、律法を守ることで義とされることはない。そもそも神が求める義には、律法遵守で到達することは誰一人できないからだ。

「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」(ガラテヤ人への手紙 5:2-6)

私たちの救い主イエスキリストは、律法を守ることで救うことはなさらなかった。キリストは愛によって働く信仰のみにより私たちを救うように定められた。

キリストに表された神の愛に感謝して歩みたい。

愛する天のお父様、あなたは私たちの救い主です。律法を行うことではなく、十字架のあがないを信じる信仰によって私たちを救ってくださいました。ありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。