生き返り見つかった子

「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」(ルカの福音書 15:22-24)

自分の子どもが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのなら、親としては、急いで一番良い衣を持って来て、その子に着せ、手に指輪をはめ、足に履き物をはかせ、肥えた子牛を引いて来て屠り、食べて祝うものだ。

放蕩息子の話では、弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。 

何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』(ルカの福音書 15:12-21)

弟がしたことに対して賛同することはないにしても、弟が心を入れ替えて戻ってきたことに対して、心から喜び、もてなし、お祝いすることは、親に与えられた素晴らしい特権ではなかろうか!

親の顔に泥を塗ったと子どもの過去に目を向けて怒り心頭に接することもできるが、子どもが失敗や挫折から立ち直り、一からやり直そうとしている子どもの将来に目を向けて、励まし、そしてお祝いをして歓迎の意を表すこともできる。

自分自身も過去を赦され、立ち直るのを支持し支援してもらった経験があるなら、他人の過ちを大目に見ることができるはずである。

一時的な感情にとらわれず、自分自身の罪もすべて赦してもらえた、神の恵みと憐れみの大きさに感謝して歩みたい。

愛する天のお父様、御子イエスキリストの十字架の上で私の身代わりとなって罪を赦してくださった、あなたの愛の大きさと憐れみの深さを心から感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。