主はあわれもうと思う者をあわれむ

「それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ人への手紙 9:14,15,16)

アブラハムは神の約束を待てず、妻ではなく、妻の奴隷から後継者を得ようとした。しかし神の計画は、人間的に可能な後継ではなく、神の力と信仰によって生まれる子をアブラハムの後継とすることであった。

「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められる」とある通りだ。

行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(ローマ人への手紙 9:8)

また、イサクによって身ごもったリベカの場合もそうであった。その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(ローマ人への手紙 9:10,11,12) 通常は長子が家督を継ぐのが一般的で、弟が兄に仕えることが多い中、 兄のエサウが弟ヤコブに仕えることが神の定めたことであった。

主のなさる方法は私たちの考え方とは違う。主はあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむお方である。

私たちは願いや努力によって何かを成し遂げようとする。こうあって欲しい、あああって欲しい、こうしたい、ああしたいなどである。または必死に評価されようと努力を重ねるが、主のあわれみの中で様々なことは成就し実現してゆく。

もし私たちが自己実現に勤しむなら、できない時には自分自身に失望し、あるいは自責の念に駆られ、なお一層努力を積み重ねて、うまくいかないと余計に苦しくなる。

私たちの人生において主が主権をもって治めてくださり、私たちは主なる神の憐れみの中で動いていることを忘れないようにしたい。

愛する天のお父様、あなたが私たちの主です。あなたはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしまれるお方です。あなたに感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。