汚れ

「すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。」(マルコによる福音書 7:15)

「汚れ」という概念であるが、多くのユダヤ人たちは、衛生的および宗教的な概念でとらえていた。

もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。  

さてパリサイ人をはじめユダヤ人は、イエスの弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見た。 そこでパリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか。」( 7:2-5)

しかし、イエスは汚れは人の中から出てくるもの、つまり、「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。」(7:21-22)だと言われた。

汚れは私たちの心のことを指す。私たちは主の前に心の汚れを取り除き、洗い、清めていただく必要がある。

イエスはパリサイ派やユダヤ人たちに言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、 無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている。」(7:6-8, 13) 

私たちが心の汚れを清めず、放置することは問題である。私たちは外側だけではなく、むしろ内側を清めなくてはならない。私たちの心の汚れは、イエスが十字架の上で流された血によってすべて洗い流され、私たちは清いものとして認められた。このことを信じ、私たちは清められていることを主に感謝したい。

愛する天のお父様、あなたの清めを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。