私を贖う方は生きておられる

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」(ヨブ記 19:25)

ヨブは苦悩の中にいた。その苦悩をこのように吐露している。

「見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。親族は見放し、親しい友も私を忘れた。私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。」(ヨブ記 19:7-20)

ヨブが自分の身の上に起きたことについて、どのように見ているのかがよくわかる。

「あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」(ヨブ記 19:21-27)

苦悩の中を通らされる時に私たちが苦悩を吐露でき、話を聞いてくれる場所があることが大切だ。自分の辛い気持ちを誰かに聞いてもらえた、わかってもらえたと思うだけで気持ちは救われる。最終的に私たちは贖い主は生きておられると告白し、信仰の上に立てたら素晴らしいではないか。

私も苦悩の中から、私たちの贖い主なるイエスが私たちの気持ちを理解してくださると告白したい。

愛する天のお父様、あなたは私の贖い主です。あなたは生きておられます。私の気持ちを理解してくださり、ありうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。