供え物
「「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。 もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」(レビ記 1:2-4)
主に家畜の供え物をささげるのは、モーセの時代から始まったイスラエルの民による礼拝方法の一つ。モーセがシナイ山で授けられた律法である。イスラエルの民が神に完全に献身することを意味していた。彼らは宿営地にあった会見の天幕に行き、燔祭(全焼のいけにえ)の獣の頭に手を置いて、入り口のところでささげた。獣の頭に手を置くのは、自分の身代わりとなることを意味していた。
自分の罪の身代わりとして動物は屠られ、その血は祭壇に注ぎかけるか、塗るかして「あがない」の代価としてささげられた。民として、あるいはつかさと呼ばれるリーダーたちも祭司自身も個人としてささげ、彼らは贖われた。
今日私たちクリスチャンは、動物による捧げものはしない。私たちは日々心を主にささげる。行いによるのではなく、心をささげ、心からの礼拝が行いとなってゆく。
かつてイスラエルの民が行っていたのは、その時代に神が命じられたからである。今日私たちに神が命じられ、与えられたのは、イエスキリストの十字架のあがないを心で信じることである。だから、もはや私たちは会見の天幕や神殿や会堂、あるいは教会に行き、懺悔する必要はない。どこにいても、心の中で主イエスキリストを信じることにより、私たちの罪は赦され、赦しと救いの確信の上に立って歩むことができる。
心を主にささげることは私たちの生活の一部であり、生活全体、生活そのものが神を中心として礼拝するものとなる。
今日も心から主を礼拝して歩んでいきたい。
愛する天のお父様、あなたを心から信じ、礼拝します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。