神の目が注がれている

「しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず、その事をダリヨスに奏して、その返答の来るのを待った。」(エズラ記 5:5)

かつてシャルテルの子ゼルバベルおよびヨザダクの子エシュアは立ちあがって、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた。 

その時、川向こうの州の知事タテナイおよびセタル・ボズナイとその同僚は彼らの所に来てこう言った、「だれがあなたがたにこの宮を建て、この城壁を築きあげることを命じたのか」。 また「この建物を建てている人々の名はなんというのか」と尋ねた。 

しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず、その事をダリヨスに奏して、その返答の来るのを待った。」

(エズラ記 5:2-5)

ここで神の目が注がれていたとは、神の守りと神の主権があることを意味している。ユダヤ人たちがエルサレムに神殿を建てようとしていた時に、川向こうの州の知事とその同僚が邪魔しようとしたが、彼らは神の目が注がれていたため、建築を阻止することは出来なかった。神が主権を持って神殿建築を進めていたからだ。

霊的なものに置き換えてみよう。私たちが神の働きを進める時、私たちのことを快く思わないものたちが邪魔しようとしても、神が主権持っている事業や働きを阻止することはできない。

神の目が私たちの上に注がれていることは私たちにとって絶大な安心感へとつながる。

「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。 あなたを守る者はまどろむことがない。」(詩篇 121:3)

主は私たちにご自身の目を注ぎ、私たちを守ってくださっている。

愛する天のお父様、あなたの守りを感謝します。あなたに信頼します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。