タイトル:神様には、私たちの心の中の神様への愛情を奪うようなライバルはいない

タイトル:神様には、私たちの心の中の神様への愛情を奪うようなライバルはいない
聖句:”次のような主のことばが私にあった。 「人の子よ、見よ、わたしは一打ちで、あなたの目の喜びを取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。 死者のためにうめけ。しかし、喪に服してはならない。頭にターバンを巻き付け、足に履き物をはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」 その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。 すると、民は私に尋ねた。「あなたがしているこれらのことは、私たちにとって何を意味するのか、説明してくれませんか。」 そこで私は彼らに答えた。次のような主のことばが私にあった、と。 「イスラエルの家に言え。『神である主はこう言われる。見よ。あなたがたの力の誇りであり、あなたがたの目が喜び、あなたがたの心が大切にするわたしの聖所を、わたしは汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは、剣で倒れる。 あなたがたは、わたしがするとおりにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。 頭にターバンを巻き、足に履き物をはき、嘆かず泣かない。ただ、自分たちの咎のゆえに朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。 エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このことが起こるとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知る。』 人の子よ。彼らが力とするもの、栄えに満ちた喜び、目の喜ぶもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを、わたしが取り去る日、 その日、逃れた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。 その日、あなたの口は逃れて来た者に開かれ、あなたは語る。もう黙っていてはならない。こうして、あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」” エゼキエル書 24章15~27節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
観察:            神様が私たちに何かをするように呼びかけてくるとき、それは私たちの従順さを試す最も重要なテストとなります。神様のやり方は私たちのやり方とは異なり、神様が私たちに理解できないことをなぜ求めるのか、私たちには決して理解できません。多くの人は人生における神様のみわざの深さについて理解することはありません。人は、神様がなぜそんなことをされるのか批判してしまう時があります。しかし、神様を本当に信頼し理解する人たちに対して、神様は人間の頭では理解できないようなことをすることがあります。            主の言葉がエゼキエルに臨み、こう言われました。「人の子よ、見よ、わたしは一打ちで、あなたの目の喜びを取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。 死者のためにうめけ。しかし、喪に服してはならない。頭にターバンを巻き付け、足に履き物をはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」

その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。            エゼキエルの奥さんは彼の人生において大きな喜びでした。神様は、これから起きるであろうこと、それは、エゼキエルの妻が死んでしまうと言われ、それが起きたときに何をすべきかについて指示を与えました。これは非常に極端な指示です。愛する人が奪われたとき、心が壊れない人などいるでしょうか?  それは人間として受け入れ難いことです。しかし、エゼキエルは妻に起こったことと同じことがイスラエルに対して起こることを喜んで受け入れました。エゼキエルとその妻の命は、神様の目的と神様が彼らの命を使って望まれていたことのために捧げられました。彼らは、神様のメッセージが伝わるために必要であれば、究極の犠牲を払うことさえも厭わないという覚悟でいました。  
            メッセージは「あなたの目の喜び」となったものでした。「 

神である主はこう言われる。『見よ。あなたがたの力の誇りであり、あなたがたの目が喜び、あなたがたの心が大切にするわたしの聖所を、わたしは汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは、剣で倒れる。』」  イスラエルは神様の聖所を自分たちの拠り所としていました。そして、神様よりもそれを誇りにしてきました。神様の聖所が、神様ご自身よりも大切な、彼らの愛情の対象となっていました。聖所が彼らの喜びと栄光、彼らの目の喜び、彼らの心の望みとなり、さらに悪いことに、彼らの後の世代でさえ、彼らの両親が行っていたことを繰り返していたのです。神様は私たちが愛し、喜ぶすべてのものを奪い去る時が来ます。そんな時でも、最も重要なことは、神様との関係を喜ぶことです。私たちが行うすべてのことは、神様との関係から流れてくるものでなければなりません。

私の人生を改めて、何が「私の目の喜び」になっているのかを吟味しなければなりません。 神様以外に私の愛情を奪っているのは何でしょう? 何が私の喜びと栄光となっているのでしょうか? 私の心は神様よりも何を望んでいるのでしょう?これらの質問は、私たちが自分の心のうちを調べるときに考える上で価値のある質問です。神様を神様の聖所に置き換えるのは簡単なことです。私たちは神様のため聖所で私たちがしていることを愛し始めると、神様との本当のつながりを失ってしまいます。人は、神様と共に物事を行わず、神様のためと言って物事を行うことに誤って愛情を注いでいます。神様は、私がどこに愛情を注いでいるか以外には興味を持っていません。神様は、神様との関係ではない、神様に対する私たちの愛情を奪ってしまうような奉仕は望んでおられません。 適用:

私は、神様との関係よりも、神様の聖所のために物事をすることに愛情を注いではいないか、日々、自分自身を吟味したいと思います。私は、神様ご自身を私の目の喜びとし、私の心の望みとしてそれを喜び、私の情熱と愛情を注ぐに値する存在としたいです。これを日々の課題とします。祈り:            天のお父様、私の心があなただけに喜びを見出すことができるように祈ります。私の愛情、喜び、心の願いのすべてを、毎日あなたを知ることに向けるよう助けてください。 いつも私を愛し、私のことをあなたの目の喜びとしてくださり感謝します。あなたがいつも私の目の喜びであり、私の心の喜びであり続けることを祈ります。 イエス様のみ名によって私を教え導いてください。アーメン!