災いを思い直す神

「ユダの王ヨシヤの子エホヤキムが世を治めた初めのころ、主からこの言葉があった、 「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない。 彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れない。そのとき、わたしは彼らの行いの悪いために、災を彼らに下そうとしたのを思いなおす。 」(エレミヤ書 26:1-3)

私たちの神は下そうとしていた災を思いなおすお方である。

ユダの民は、イスラエルの民であるが、彼らは悪い道を歩み、行いが悪かった。しかし主は言われた。「彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れない。そのとき、わたしは彼らの行いの悪いために、災を彼らに下そうとしたのを思いなおす」と。

神が災いを下すのは、民を罰するためというよりも、訓練するためである。災いは彼らの不従順の結果であったのと同時に予防的要素も強かった。

私たちが罰という側面に焦点を当ててばかりいると、神に対するイメージが否定的になってしまうが、思い直してくださるという側面を見ると、神の愛の深さを知ることができる。正しい神は私たちを罰することを控え、憐れみによって愛を示してくださる。

私たちが神の心が表れている言葉をひと言も言い残さずに語り、人々が耳にして受け止めるなら、本来は罪のために罰せられて当然な私たちに対して、下そうとした災いを思い直してくださる。

天の父なる神様、私たちの罪を赦し、私たちに憐れみを注いでくださり感謝します。あなたの言葉を一言も逃すことなく受け止め、信じて歩むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。