洗足

「こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。」(ヨハネによる福音書 13:12-17)

洗足という言葉は地名、駅名、学校名として知られているが、この聖書箇所に由来する。

主であり教師は、どちらかというと尊敬される立場にいる者だが、イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネによる福音書 13:4-5)

するとペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。しかしイエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。」(ヨハネによる福音書 13:8)

足を洗うことは、係わりを持つということだ。単なる水浴ではない。足を洗うことで、主が弟子たちと仕えるという関係を持つことができる。

そして主が「あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」と言われたのは、お互いに仕え合いなさいということだ。私たちが抱えるさまざまな必要に対して、手や足を動かし、頭を動かして共に考え、心を動かして祈り励ますことであろう。

教会とは勉強会や楽しいイベントに加え、人々の足を洗い合うコミュニティのようだ。

愛する天のお父様、私たちがお互いに足を洗う関係となりますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。