過去ではなく未来に目を向ける神

「この地で祝福される者はまことの神によって祝福され、この地で誓う者はまことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」

(イザヤ書 65:16,17,18,19)

自分たちの努力によって祝福を勝ち取ろうとする者と、神の祝福によって生きる者とでは大きく違う。

イザヤの時代はおろか、いつの時代もそうなのであるが、イスラエルの民は「頑なな民」または「自分の考えのまま、良くない道を歩む者たち」と神に評された。

その様子についてイザヤ書 65:1,2では、このように述べられている。「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」

主を怒らす民、主を捨てる民となったイスラエルに対して主はこう言われた。

「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。」

「わたしは、ヤコブから子孫をユダから、わたしの山々を所有する者を生まれさせる。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。わたしを求めた、わたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏すところとなる。」(イザヤ書 65:8,9,10)

  

頑固で、主を怒らせ、主を捨てていた民に対して、主は新しい天と新しい地を創造すると言われた。そして、「先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」と言われたのだ。

私たちの神は過去ではなく、未来に目を向けてくださる神である。私たちも頑固で、主を怒らせ、主を捨てるようなところがあったかもしれない。しかし主のもとに戻る時、主は私たちを喜びとし、私たちが喜び楽しむことができるようにしてくださる。

愛する天のお父様、あなたの憐れみを感謝します。あなたが未来に目を向けてくださっているので、私たちはあなたを喜び楽しむことができます。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。