自分の手によらず
「彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。」(使徒行伝 7:25)
四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。 ところが、そのひとりがいじめられているのを見て、これをかばい、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。 彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。
翌日モーセは、彼らが争い合っているところに現れ、仲裁しようとして言った、『まて、君たちは兄弟同志ではないか。どうして互に傷つけ合っているのか』。 すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。 君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと思っているのか』。 モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけた。(使徒行伝 7:23-29)
この世の中、期待通りにならない、思い通りにならないことが山ほどある。自分の手、つまり自分の努力ややり方でことが進んだり、あるいは収まることを期待するが、現実は違うため、私たちは戸惑い、最終的に逃げることがある。
モーセのエジプトからの逃亡は、一見、エジプト王家の一員である特権を放棄し、敗走した悲しい結末に見える。しかし神はモーセの失敗をイスラエルの民全体の解放のために用いた。ミデヤンの地で羊飼いとなったモーセは人生の落伍者としてのレッテルを貼られてもおかしくない。
私たちは自分たちの手で何かをしようとすると失敗する。しかし、神の計画に照準をあわせる時、神は永遠のご計画を成就される。
神の御心を求めて一つ一つ行動したい。
愛する天のお父様、あなたの御心がなりますように。あなたに期待します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。