恐れに気を取られるのではなく、神様に心を向けよう
聖句:”主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」 神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。 わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。 今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。 それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」 モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。 主はモーセに告げられた。 「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」 しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」” 出エジプト記 6章1~12節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
観察:
モーセは神様からの任務に苦悩していました。権力者であるファラオに対して、全く歯が立たず、神様から遣わされた者として自分は不適格ではないかと感じていました。モーセは神様よりもファラオの偉大さに感服している様子が読み取れます。何度となく、私たちはモーセのような気持ちになります。恐れから、自分自身を矮小化し、相応しくないと感じます。私たちが抱く恐れが私たちを、私たちを召された神様よりも私たちが直面するチャレンジに気持ちが向いてしまいます。チャレンジのそのサイズと大きさに屈し、恐れにひざまずかされてしまいます。
モーセがファラオの前に進み出ていく前、主はモーセにその結末がどうなるかを伝えていました。しかし、神様から聞かされていたことをもってしても、モーセにはまだ信じられていない何かが彼の中にあったのです。神様はモーセに言いました。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」神様は、私たちが信じるなるように、何度私たちに何かを見せなければならないのでしょうか ?神様は言っておられます。私があなたにしろと命じたことをただしていけば、あなたはそれが何だかがわかるようになるだろうと。
次に 神様がモーセにしたことは、神様がご自身が誰であるかを語られたことです。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。 」と。神様がどんなお方であるかについて、神様は恐れでいっぱいのモーセに対して自信を持つようにとこの言葉を語られたのです。モーセの先祖たちは神様の力を知っていました。 しかし、彼らに神様が約束されたこと自体について、それを見ることはありませんでした。神様が全能の神であることを知りつつ、彼らは皆死んでいきました。しかし、その後の世代が、神様が契約として約束された、その良きものを経験することになっていくのです。
主という名は契約を守られる神様の一面を表しています。神様はモーセに、神様ご自身がその契約の主であることを確約してくださったのです。アブラハム、イサク、そしてヤコブに約束された契約を全うされると。そして、神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに語られたことをもう一度モーセに思い出させました。神様はイスラエルの子らにこう言えと。「わたしは主である。:
あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。·
わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す·
あなたがたを重い労働から救い出す·
伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う·
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、·
わたしはあなたがたの神となるモーセはこれらのすべての約束事をイスラエルの子らに伝えましたが、
落胆と苦役のゆえに彼らはモーセに耳を貸そうとしませんでした。しかし、神様がモーセにイスラエルの子らにこのことを伝えなさいと言われた時、これがまた、モーセの恐れを増す原因となっていました。モーセは神様に、こう言い返します。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」自分の限界を感じ、そして、イスラエルの民から反対にも会い、モーセは挫折感を味合います。 自分の不甲斐なさと人々の反応に目が行ってしまう時、神様がみわざを行われるのにいかに大きい存在であられるか、力があり、そして忠実なお方であられるか、それが見えなくなってしまいます。神様は、モーセが口下手であることを重々承知の上で、モーセを召されました。自分には不可能に思える気持ちにおされてしまうため、全能の神である神様がみわざを行うことに、私たちは思いがいかなくなってしまうことが幾度となくあります。 神様は私たちに従順を求めておられます。そして、神様は、神様が約束を果たされる力を持っておられることに心を向けるようにと私たちを召されています。神様は、その結果について心配しすぎてはいけないと言われます。結果は神様のものです。しかし、私たちがすべきは従順さを持つことです。人の反応に心を奪われ過ぎてしまうことが、私たちが神様から求められていることについて疑い始める原因となってしまうのです。
適用: 私たちの目にみえるチャレンジにばかり気を取られるために、神様は私を召されているのではないことを今日学びました。神様は私に従うように、そして、その結果を神様に任せるようにと呼ばわれています。幾度となく、私は自分の努力が認められたいという思いを持ってしまいます。神様は私に神様に信頼するように、神様が私に求めているそのことをするようにと呼んでおられます。そして、私が恐れに向き合い、あとはすべて神様に信頼するようにと。
祈り: イエス様、私が直面していることに恐れることは、あなたがどういうお方であるかに比べたら、いかに小さなことであるか、そんなあなたの力にどうしたら感動することができるのか、私に教えてください。あなたがいかに力のあるお方であるか、そしてあなたの目的やご計画を妨げるものは何もないことを理解できるよう私を助けてください。あなたに従うことができるよう私を助けてください。私が抱くあらゆる恐れよりもあなたは偉大なお方であることを見ることができるよう、私の目を開いてください。アーメン!