神の言葉が臨む場所

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。『こうして、すべての者が神の救いを見る。』」(‭‭ルカによる福音書‬ ‭3‬:‭1‬-‭3‬, ‭6‬)

神の言葉が臨む場所、神の言葉が来るところ、とはどこなのか?

今から二千年以上も前にイスラエルの地に神の言葉が臨んだのは、皇帝ティベリウスでも、ユダヤの総督ポンティオ・ピラトでも、ガリラヤの領主ヘロデでも、イトラヤとトラコニテ地方の領主ピリポが、アビレネの領主リサニアでも大祭司アンナスとカヤパでもなく、荒野にいたザカリヤの子ヨハネであった。

なぜか?

一つは遥か前に預言者イザヤの預言があったからである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。

主の通られる道をまっすぐにせよ。』」(ルカの福音書 3:4)

より重要なのは、神の言葉は地位に関係なく、主に従う心があるかということである。ヨハネが罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えると、『すべての者が神の救いを見る』ようになった。多くの者たちが罪を悔い改めたことで、主イエスの素晴らしい働きへとつながって行った。

私たちは福音を宣べ伝えるように命じられている。私たちは人々に罪を悔い改め、主イエスキリストを救い主として受け入れるように伝えることは私たちの使命(ミッション)である。

愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。私たちがあなたの福音を宣べ伝えるように召してくださいました。どうか忠実に仕えることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。