誰の名を上げるのか?
「彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」(創世記 11:4-9)
私たちは自分たちのなすべき事すべてにおいて、誰の名を上げるためにやっているのかを問わなければならない。つまり、自分自身の名を上げるためにあらゆることに取り組むのか、それとも主の名を上げるためにやっているのか、である。
バベルの町の人々は、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせ、自分たちの名を上げて、全地のおもてに散るのを免れようとした。
これは主を悲しませる考え方であった。私たちが自分自身を誇り、自分自身を高め、名を上げようとする行為を主は喜ばれない。むしろ逆に主を誇り、主の御名を掲げ、主を賛美する時に、主の祝福が与えられる。
私たちはこのことを肝に銘じ、主をほめたたえ、主の栄光のために生きる者でありたい。
愛する天のお父様、あなたの御名を掲げます。あなたの栄光のために生きる一年としてください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。