見よ、わたしはすぐに来る
「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。」(ヨハネの黙示録 22:12)
幻の中で主はすぐに来るとヨハネに言われたのは今から約二千年前。すぐ来るという約束には、私たちがいつまでも主に心を向けないことがないように、目を覚まし続けるようにという願いが込められているように思う。
主が来られるのは、それぞれの行いに応じて報いるためである。行いと言うと私たちはパフォーマンス主義や成果主義を想像しかねない。実はそれは非常に危険な考え方である。他人の気持ちを顧みることなく、傷つけ薙ぎ倒し、神を信頼することもなく、結果オーライの、何とか形になればよい、という考え方に陥りやすいからだ。行いのできない状態にいる人は世の中にごまんといる。主のために何もできなかったり、人の役に立たなければ自分には価値がないという考え方が罷り通ってしまう。
主が求めておられるのは、私たちの悪き心のまま行ったことではなく、主に命じられたことに対して忠実に従い、主に信頼することで主の力によって成し遂げたことである。
私の祖母は長い間病床に伏し、大好きな礼拝にも出席できず、ただ家族や人々のために静かに祈っているだけだった。物質的な生産性のない状態であったが、今日私が信仰を持って生きているのは、祖母の祈りがあったからだと思っている。
主が求めておられる行いとは、あくまでも心があっての結果であり、心を蔑ろにした結果ではない。人は行いだけを見るが、主は心を見られる。人はうわべを見るが、主は心を見られる。
やがてすぐに来られる主は私たちのために、どのような報いを用意しておられるのだろうか? 今日、主が私たちに語られていることを行いたい。
愛する天のお父様、今日の私の歩みもあなたが備え、導いておられる。今日もあなたに信頼します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。