必ず生きる道

「しかし、悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しい事のために生きる。 主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」‭(エゼキエル書‬ ‭18‬:‭21‬-‭23‬)

私たちは死ぬのではなく生きるとは、どういう意味か?

肉体的死はすべての人に訪れるが、霊的死は神から離れた人に訪れる。しかしもし私たちが神の道を歩むなら、霊的ないのちは私たちに訪れ与えられる。

「主のすべての定めを守り、公道と正義とを行う」ことは一見「行い」、何かしらの行為に見る。しかし新約聖書のイエスの言葉を見る時、私たちは行為ではなく信仰の大切さが見えてくる。主のすべての定めを守り、公道と正義を行うとは、イエスを神の御子、救い主と信じることになる。私たちは信仰によって義とされるからである。

このことを理解していなかったパリサイ人や律法学者たちは必死に行為を持って自らの義、正しさを証明しようと外側を一生懸命繕っていたが、内側は放縦と罪でいっぱいの偽善者であった。

旧約聖書の時代からも神の義を行う者、イエスを信じる者を神は正しいと認め、命を与え、必ず生きるようにしてくださった。

私たちは主を信頼する者でありたい。

愛する天のお父様、あなたが私たちに命を豊かに与え、私たちが生きることができるようにしてくださったことを感謝します。あなたを信頼して歩みます。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。