私たちが習うべきこと
「イスラエルの家よ、主のあなたがたに語られる言葉を聞け。 主はこう言われる、 「異邦の人の道に習ってはならない。 また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、 あなたがたはそれを恐れてはならない。 異邦の民のならわしはむなしいからだ。 彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、 木工の手で、おのをもって造ったものだ。 人々は銀や金をもって、それを飾り、 くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。 その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、 ものを言うことができない。 歩くこともできないから、 人に運んでもらわなければならない。 それを恐れるに及ばない。 それは災をくだすことができず、 また幸をくだす力もないからだ」。」(エレミヤ書 10:1-5)
私たちは生まれた時から様々なことを習う。自然に身につくものもあるが、歩き方、言葉、マナー、あらゆるスキルなど大方、親兄弟など年上の人たちから教わり、習うと言ってよいだろう。
もし私たちが悪い言葉を習うなら、周りが指摘し、指導し、正してくれる。間違えたものについて指摘され直ぐに自己修正出来れば良いが、なかなか直らない悪い癖を矯正する場合はかなりの痛みが伴うものだ。
イスラエルの民は周辺諸国の人々が行っていた悪しき習慣の数々を習わないように、また行い始めたものに関しては止めるように言われた。エレミヤの預言にあるようにかなり無意味なものであることは冷静になって考えればわかることばかりだ。
しかし怖いのは私たちが冷静さを失ったり、考えることを止めてしまい、言われるままに盲従してしまう時である。
だから私たちは常に毎日のデボーションを通して神の声を聞き、聖霊の促しに敏感に察知し続けることが大切である。
今日も主の声を聞き、主だけを礼拝していきたい。
愛する天のお父様、あなたをほめたたえます。あなたが私の主、私の神です。主イエスキリストの御名によって、アーメン。