主を恐れることは知識のはじめである
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。 わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教えを捨ててはならない。 それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。」(箴言 1:7-9)
知識はどのように得たら良いのか?
先ずは知識とはデータの蓄積ではない。ビッグデータのように、検索エンジンのように何でも情報を引き出せるような便利なものではなく、ChatGPTのように生成AIを使って産出すれば良いというものでもない。
私たちはどの知識を自分のものとするかが大切だ。つまり私たちの心に何を蓄えるかである。不用な役に立たない情報はいらない。偽りの情報は真理に書き換えなければならない。
真の知識は主を知ることから始まる。聖書の知識を増やすことではなく、聖書の知識を実践に移し、神を個人的に体験的に知ることである。人生のあらゆる場面で神を信じ、また神を恐れることこそ、知識が生きたものとなり、生きた信仰を持つことができるようになる。だから主を恐れることは知識のはじめとなるのだ。
生きた知識、生きた信仰を知恵と呼ぶが、神の言葉や両親の言葉は多くの場合、私たちに知恵と教訓を与えてくれる。もし両親の生き方が間違っているのなら、反面教師としたら良い。
もし私たちの両親が私たちの身近な存在であり、神を畏れて生きている人々なら、彼らから学べることは多い。
主を恐れて(畏れ敬って)歩みたい。
愛する天のお父様、どうかあなたを敬い、あなたの道に歩むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。