キリストの貧しさによって私たちが富む
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」
(コリント人への第二の手紙 8:9)
キリストの貧しさとあるが、キリストが貧しいわけではない。なぜならキリストは富んでおられ、私たちに恵みを豊かに施し、私たちの人生を祝福で満たしてくださるからである。
キリストの貧しさは、私たちを贖うために、無となり、自らの命を十字架の上で私たちの罪の代価としてささげてくださったことではなかろうか。私たちの身代わりとなって死んでくださったことで、私たちがキリストを信じる時に、自らの罪を赦され、永遠の命を得ることができ、私たちは真に富む者となった。
パウロは、この話の後に、教会の人々の持ち物の話をしている。「それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。 すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。 それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。」(コリント人への第二の手紙 8:13-15)
物理的な持ち物、つまり財産を経済的に豊かな人が経済的に欠乏している人を支える仕組みが教会から始められるのは素晴らしい。複数の人数によって教会に捧げられた霊的な富と自然的な富を経済的にチャレンジを抱える人たちが富むために用いられたら素晴らしい。
教会が福祉や医療、教育や生活支援することは神から与えられた資源を分与することにつながり、神が願っていることではなかろうか。
私たちも与えられているのだから、惜しみなく与える者となりたい。
愛する天のお父様、あなたが私たちを富ませてくださり、ありがとうございます。私たちも人々を富ます者となりますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。