主の御霊が宿る者

「「主の御霊がわたしに宿っている。 貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、 わたしを聖別してくださったからである。 主はわたしをつかわして、 囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、 打ちひしがれている者に自由を得させ、 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。」(‭‭ルカによる福音書‬ ‭4‬:‭18‬-‭19‬)

これはイザヤ書61章に書かれた言葉で、イエスが自分の故郷であるナザレの町のユダヤ人たちが集う会堂で、公生涯の始めに自己紹介のために引用した言葉であった。

イエスはご自身に主の御霊が宿っていると言われたが、それはイエスご自身が主であることからしても確かなことだ。また、父なる神が貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるためにイエスを聖別され、イエスをつかわして 囚人が解放されたり盲人の目が開かれることを告げ知らせた。イエスの言動を見ても然りである。そしてイエスは打ちひしがれている者に自由を得させ、 主のめぐみの年を告げ知らせたのも、福音書が記す通りである。

解放者、癒し主、また恵みをもたらす方であるイエスは多くの人々に歓迎された。

しかしイエスの次の言葉は会堂にいた人々の気分を害した。「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。

会堂にいた者たちはユダヤ人で、預言者たちがイスラエルの民ではなく、異邦人のところに遣わされ、神の働きがなされたということは、神の選民を自負するユダヤ人たちにとってはプライドに関わることであった。

イエスの言葉を聞いて、みな憤りに満ち、 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。(‭‭ルカによる福音書‬ ‭4‬:‭24‬-‭30‬)

神の働きを受け入れることのできる者とそうでない者、イエスキリストの働きを受け入れることのできる者とそうではない者たちがいる。

主イエスを心に受け入れた私たちも、イエスキリストの働きに参加するように招待されている。理解を得られず、反対や非難される時も、神の働きが前進し、イエスキリストを救い主として受け入れる人々が起こされるようキリストの福音を宣べ伝えていきたい。

愛する天のお父様、主の霊により、あなたの働きをなすことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。