私は待ち望む、主の恵みを
私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。 (哀歌 3:21-24)
私たちは辛く苦しいシーズンを通らされることがあろう。エレミヤも主から言葉を預かり、それをイスラエルの民に伝えても受け入れてもらえず、穴の中に入れられ、辛く苦しいところを通らされた。
エレミヤは言った。私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
私たちが辛く苦しむときに、私たちは主の恵みを待つ望むことができる。主の恵みとは、主が与えてくださる良いものだ。それが実現しようとしまいと、時間がかかろうとかからまいと、主を待ち望むのである。
エレミヤは言った。「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。」私たちは静かに主の救いを待つことができる。主の救いを鎮まって待ち望むことは悪いことではない。良いことである。
またエレミヤは言った。「人が、若いときに、くびきを負うのは良い。 それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。 」くびきを負い、絶望の中に置かれ、また恥辱を受けるかもしれない。しかし、私たちはひとり黙って座っていることができる。なぜか?
それは、「主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない 」(哀歌 3:21-33)からである。
主は救い主である。主は恵みを注ぎ、憐みを与えてくださる。私たちが意味もなく苦しみ悩むことがないことが感謝である。
愛する天のお父様、あなたは恵み深く、憐み深いお方です。あなたが私たちを救ってくださることを心から感謝します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
