神から出た教えとそうではないもの
そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(ヨハネの福音書 7:16-18)
ユダヤ人たちはイエスが正式な学問を修めていないのに、素晴らしい教えをしていたので驚いた。そこで、イエスが彼らに答えられたのである。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」イエスの教えは神からのものであった。
ユダヤ人たちもモーセの律法を学んでいたので、神の教えを知っていたのだが、イエスとの大きな違いは、イエスが神の心を知り、神に従い、神の教えをしていた点である。ユダヤ人たちは知識として神の教えを持っていたが、行動に移すことはなかった。だから、イエスは彼らのことを偽善者だと言われたのであった。
そしてイエスは自分が父なる神から遣わされており、遣わした方の教えをしていると説明された。この点ユダヤ人たちはイエスが父なる神から遣わされた方であることを認めていない。むしろイエスは神を冒涜していると糾弾し、迫害し、仕舞には十字架につけてしまった。
ユダヤ人たちの多くは、イエスの教えが神から出たものであると悟らなかった。そこでイエスは言われた。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」別の言い方をすると、彼らは神のみこころを行おうとしていなかった。だからイエスの教えが父なる神からのものであることがわからなかったのである。暗にイエスは彼らを戒めている。
さらにイエスはユダヤ人たちに言われた。「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」
神の教えからずれていることの一つに、自分の栄光を求めるという兆候がある。その人は神のみこころを語るのではなく、自分から語る。自分中心の思いを持ち、自分の肉的な思いから教えをする。その結果自分の栄誉を求めるのだ。しかし神のみこころを教えるものは、自分たちを遣わされた方の栄誉を求めるので、真実の教えを為し、不正を行うことはない。
私たちが神の教えを、神の御心にそって理解し、生き、教えることが大切だ。決して講壇を自分から語る場にしてはならない。主なる神の栄誉を求めて語ることを主が求めておられる。
愛する天のお父様、あなたの教えを感謝します。あなたの教えを聞く者すべてがあなたに栄誉を与え、あなたの素晴らしさを証しますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
