悲しみの祝福

知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。(伝道者の書 7:4-6)

悲しみは祝福である。どうしてそんなことが言えるのか?

伝道者はこのように述べた。「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」(7:1)  名声はその人が生涯かけて実を結んだものである。あらゆる試練や困難を経て培ったものである。その香りは良い香油に遥かに勝るものである。死ぬ日は同じくその人の生き方そのものを人々は思い出し、感動を覚えて涙する日であるから尊い。

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」(7:2) とは一節と同じ理由である。喪中の家では故人がどのように生きたかが話し合われ、生きる者たちに力と励ましを与える場所となるからだ。「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」

知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にあるとあるように、知恵ある者は生き方を学び、叱責を通して人生の糧を得る。しかし愚かな者はひたすら悲しみそのものや、悲しみから得られる祝福を拒否し、ただ楽しく過ごそうとし、宴会の歌を歌い、笑うが空しく浅薄な対処をするだけで、虚しさは余計深まる。(伝道者の書 7:1-6)

悲しみから知恵を学び、生きることの素晴らしさや恵みに焦点を置く生き方をしたい。

愛する天のお父様、あなたは私たちに生と死を与えてくださいました。私たちは今この瞬間、生と死の間におります。私たちがどのように生きるべきか教え続けてください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。