主の選び

   「「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。 ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。」(民数記 3:12-13)

主なる神は、初子、つまり第一子は主のものだと言われた。それはかつてエジプトの国において主がすべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのすべての初子、人も獣も、ことごとく聖別して主に帰せしめ、鴨居と門柱に小羊の血を塗ったイスラエルの民の家は過ぎ越され、初子は死なずに済んだ。主がイスラエルの初子を撃ち殺さず彼らを救われたので、主は初子について「主のもの」であると言われた。

さて、エジプトを出たイスラエルの民に対して、今度は主が「イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取る」と言われた。

主の選びについて考える時、選ばれた人がどんな人物かということが考慮される場合と、そうではない場合がありそうだ。

主がアブラハムを選んだのも、アブラハムが潜在的に信仰の人であったことを考慮しつつも、実際アブラハムは主の約束を信じ切れずにハガルとの間に子孫を設けたが、約束の子は妻サラから生まれるイサクだった。

主がモーセを選ばれたのは、モーセをパロの娘によって育てられて、やがてイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するためであった。

初子もレビ人が、主の選ばれたのは、彼らに何か特別なものがあったからではない。むしろ主の選びにより、彼らは主の働きをする役割を担った。

私たちが自分自身を誇ることができない理由はここにある。私たちは主に選ばれ、主の働きをしている者たちである。何番目に生まれるかは選べないし、どの部族に生まれるかも選べない。

ただ主が私たちに対して平等なのは、主はすべての人を愛しておられるということだ。すべての人は主にあって救われることができる。すべての人には救いに応答する機会が与えられている。

大切なのは、私たちが何の働きに召されたのかということよりも、召された働きに忠実であるかどうかである。私たちは主に仕える者であるからだ。

愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。あなたが遣わしてくださるあらゆる場所であなたの栄光が現されますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。