良心を責められることのない生き方

「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」(使徒行伝 24:16)

カイザリヤにて大祭司アナニヤは、長老数名と、テルトロという弁護人とを連れて下り、総督にパウロを訴え出た。彼らは言った。「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。 この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです。

〔そして、律法にしたがって、さばこうとしていたところ、 そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。 「閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。 お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」(使徒行伝 24:1, 5-6, 10-13, 16)

パウロは何も罪に該当することがなかったのにも関わらず、大祭司や長老のねたみから訴えられたのであった。

私たちは不当の理由で訴えられたり、誤解されたり、悪口を言われることがあるかも知れない。しかし神や人に対して良心の責められるところのない生き方をすることが大切だ。どんな時にも、良心の呵責を持つことなく、どんな時にも、どんなことにおいても弁明できる生き方をしたい。

愛する天のお父様、あなたの前に正しく弁明できる生き方をすることができますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。