恥について
「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。」(創世記 9:20-23)
恥の扱いは私たちの人生にとって、とても重要な鍵となる。人間は誰でも自分自身の恥を晒すのを極端に嫌がる。自分自身の出自を隠し、恥部を覆い隠し、失敗に沈黙し、臭いモノに蓋をする傾向にある。
私たちが受けて嬉しい扱いは、私たちの恥を笑われるのではなく、私たちの恥をそっと覆い隠してもらうことだ。
ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた時、カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げたが、 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
カナンが自分の兄弟であるセムとヤペテのように着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見ないようにしていたら、父に対する敬意を保持できていた。
ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知り、彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」また言った。「ほむべきかな、セムの神、主。カナンは彼らのしもべとなるように。神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」(創世記 9:24-27)ノアの三人の子どもたちは全世界に散らばって行った。
一見些細な出来事に見えることだが、恥の扱いを間違え、敬意を失う時、深刻な結果を招きかねない。人の足りないところ、恥や弱さを笑い物にしたり、見下すのではなく、さりげなく恥を覆い隠す敬意をもって接していきたい。
愛する天のお父さま、あなたは御子イエスの十字架の死とあがないのゆえに、私たちの罪と恥を拭い去ってくださいました。ありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
