主の訓練
「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」(へブル人への手紙 12:7)
訓練は良い働きをするためになくてはならないものだ。訓練は必要である一方、訓練をあえて好む人はいない。
小さい頃、家庭では立ち振る舞い方、礼儀、マナーなどの訓練を受けた。後片付け、物の管理、健康管理など口うるさく訓練された。幼稚園に入ると集団生活の中で社会性を身につける訓練が始まった。それは小学校でも続く。上下関係のあり方について訓練され、授業や宿題で勉強の訓練を受けた。中学校では部活に入り、委員会などでリーダーとして訓練もあった。私の場合は、高校から海外で異文化の中で親と離れて生活し、外国語を習得する訓練を受けた。大学生の時はより専門的な教育を受け、アルバイト、ボランティアなどで大人として社会責任について訓練を受けた。
ミニストリーをするために献身した頃には、聖書の学びに加えて、ミニストリーの実地訓練を受けた。インターンとしてしもべの心を学び、実際に牧会をしながらさまざまなことを学び、訓練を受けている。教会に来られるあらゆる人々にどのように仕えるのか、励まし、諭し、神に従うあらゆる訓練がある。
ヘブル書の記者は「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」と言った。神との関係は親子関係のようなものである。
私たちの地上の父のことを「肉の父」と呼ぶが、聖書によると「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。」とある。霊の父は天のお父様である。
神が私たちを訓練される時、「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせ」る。(へブル人への手紙 12:10-11)
義という平安の実を結ぶことが出来たら、良い訓練を受けたと言えるのかもしれない。主の訓練を経て自分自身に必要な筋肉を鍛えたい。
愛する天のお父様、あなたの訓練を感謝します。私たちが義という平安の実を結ばせることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
