礼拝

「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。」(ヨブ記 1:1, 5)

ヨブという名の人は、完全なまでに人格を備え、神の前に正しくあろうとし、神を敬い、悪から遠ざかって生きていた人である。ヨブが習慣としていたのは、自分の子どもたちがことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれないと思い、パーティを行った日の次の朝は早く起きて、神に全焼のいけにえをささげて礼拝していた。

今日私たちは神に動物のいけにえをささげなくても、イエス・キリストが自らいけにえとなって十字架について、私たちの罪の身代わりとなってくださったので、イエスを信じる信仰によって罪がきよめられる。罪の赦しはイエスを心に受け入れた時の一度だけで良いが、私たちは神に礼拝する者となり、罪の赦しを感謝するために、週に一度教会に集まり、また神に感謝と賛美をささげている。

神を礼拝することは、私たちの日常的なものであり、形式にもはやとらわれることなく、私たちの心を主に向けることである。

だから、家にいても、職場においても、教室においても、心を主に向ける時間が礼拝となる。賛美を歌えることができるのなら歌い、祈りができるのなら祈り、主の愛をもって他人に接し、主がしてくださった良いことを証するのが礼拝だ。

私にも子どもがいるが、今日も家族のために祈り、主を礼拝する時間をもって歩みたい。

愛する天のお父様、あなたをほめたたえます。あなたの救いを感謝します。あなたをあがめ、賛美します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。