平安の家

「さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。 財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。 どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。 それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。 どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。 そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(ルカによる福音書 10:3-9)

私たちが伝道する時に大切なことは、平安の家に行くことである。

主が私たちを遣わすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものだと言った。寓話には狼は小羊を殺すという捕食者と餌食、加害者と被害者のイメージがある。福音を宣べ伝える者たちは、悪しき者たちと対峙するような場面をあるだろう。

また財布も袋もくつも持って行くな、と言われた?これは経済的あるいは物質的保証はない中で伝道することを意味している可能性がある。

だれにも道であいさつするな、とは手当たり次第福音を宣べ伝えるのではないことを指す。街宣活動もよく祈り、導かれたところで福音を宣べ伝えることが大切だ。

私たちがどこかの家に入り、まず『平安がこの家にあるように』と言い、 もし平安の子がそこにおれば、私たちの祈る平安はその人の上にとどまるので、真の意味で福音を宣べ伝えることができる。「もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来る」。私たちは平安をもたらす者たちである。

その場所で福音を語り、私たちがその家に留まることができるなら、私たちは家の人が出してくれるものを飲み食いする。つまり何でも備えられるもの、与えられるもので満足して生きることが大切だ。働き人がその報いを得るのは当然であると主が言われた通り、私たちは働きに対して与えられる報酬を受け取ることができるのなら感謝である。

私たちは家から家へと渡り歩くべきではない。主の平安が留まる場所で主の働きをしたら良い。人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べ、病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言うのである。

主の働きは踏み出してみないと、どのような導きがあるかわからない。祈って一歩踏み出してみよう。

愛する天のお父様、イエスキリストの福音を宣べ伝える働きは尊いものです。その働きがあって私たちは救いに導かれました。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。