神々に仕えず金の像を拝まない
「シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。」(ダニエル書 3:16-18)
「ネブカデネザル王は一つの金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトで、彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。 時に伝令者は大声に呼ばわって言った、「諸民、諸族、諸国語の者よ、あなたがたにこう命じられる。 角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカデネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。 だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」と。 」
「そこで民らはみな、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くや、諸民、諸族、諸国語の者たちはみな、ひれ伏して、ネブカデネザル王の立てた金の像を拝んだ。 」(ダニエル書 3:1, 4-7)
ネブカデネザル王の命令に従わないと火の燃える炉の中に投げ込まれるのか怖くて、民はネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。金の像が礼拝対象ではないことは頭で理解していても、感情では死への恐怖が強く、理性が働かないと、不合理の行動をしてしまう。
私たちも頭ではわかっていても、どんなに馬鹿げていても、その行為に手を染めてしまう。しかし私たちの信仰は、どんなに死の恐怖が迫り来ようとも、神が悲しむ偶像礼拝をしないという決意と行動にある。
シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」
私たちはシャデラク、メシャクおよびアベデネゴのように言うことが出来るだろうか?命の危険を犯しても神に従い、王に異議申し立てをすることができるだろうか?
私は神に愛され、神によって救われ、永遠のいのちと神の子どもとされる特権を得た。神を信じ、神に従う者でありたい。
愛する天のお父様、あなたの愛を感謝します。あなたに従います。主イエスキリストの御名によって、アーメン。