主は主の名のために行動する
「しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。 そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、 わたしはわたしの名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。 ただし、わたしは荒野で彼らに誓い、わたしが彼らに与えた乳と蜜との流れる地、全地の最もすばらしい地に、彼らを導かないと言った。 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。 けれどもわたしは彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。」(エゼキエル書 20:13-17)
私たちに喜怒哀楽の感情があるように、私たちの主なる神にも感情がある。私たちが主に似せて造られていることを考えると当然のことである。
また主は正しい方であるため、正しくないことである罪を放置したり妥協することはなく、必ず代償を求める。罪の報酬は死であると聖書にあるように、私たちが罪を犯すことの代償は、滅びである。
イスラエルの家は荒野で主にそむき、主の定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできる主のおきてを捨て、大いに主の安息日を汚したので、主は荒野で、主の憤りをイスラエルの民の上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、 主は主の名のために行動し、彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。
主が主の名のために行動されたのは、主は正しい方であることと同時に憐れみ深い方である。主が罪深いイスラエルの民を滅ぼさず、惜しみみて、彼らに愛を表し続けられたのは、神は愛であるからだ。
主の名は救いである。主は私たちを救うために行動される。
愛する天のお父様、あなたは救い主です。あなたの愛と憐れみを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
