彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となる
「それゆえ、言え、『主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える』と。 彼らはその所に来る時、そのもろもろのいとうべきものと、もろもろの憎むべきものとをその所から取り除く。 そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。 これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。 しかしいとうべきもの、憎むべきものをその心に慕って歩む者には、彼らの行いに従ってそのこうべに報いると、主なる神は言われる」。」(エゼキエル書 11:17-21)
主なる神はイスラエルの民に向かって言った。わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与えると。イスラエルに与えられた土地とは、レバノンとエジプトの間、地中海とヨルダンの間の土地、つまり元イスラエルとパレスチナ自治政府が支配している土地を指す。この土地を与えられるのは、イスラエルの民であると言われたのである。
まさにこの土地の所有問題が中東問題の核となっている。この聖書の言葉を信じるイスラエルと西側諸国がイスラエルの土地の正当性を主張し、パレスチナ自治区やアラブ諸国は自分たちの土地であってイスラエルの民は後から入植してきたに過ぎないと主張する。この問題において不思議なのはイスラエルの行動を蛮行として報道するメディアが多く、パレスチナのテロ行為や彼らの行いを蛮行として報じないことである。そこにどうしても偏りがある。パレスチナの土地の問題について考える時、聖書はその時代から、その土地はイスラエルの民の土地として主が彼らに与えられた土地であると言っている。領土問題はどこを基準に話すのか、という点が大切である。
イスラエルは、与えられた土地に入る時、そのもろもろの厭うべきものと、もろもろの憎むべきものとをその所から取り除くように命じられた。つまり偶像礼拝や神を悲しませる習慣などである。
さらに主がイスラエルの民に約束されたのは、新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与えるということだった。
イスラエルの民が新しい霊と肉の心を与えられる時、彼らが主の定めに歩み、主のおきてを守って行うことで、イスラエルの民が主の民となり、主が彼らの神となるためであった。
神はイスラエルを愛しておられる。神は神を信じるすべての者を愛しておられる。神はすべての人間が神を信じるようになって欲しいと願うほどに愛しておられる。
愛する天のお父様、あなたが私たちを愛し、私たちをあなたの民としてくださったことを感謝します。あなたの定めに歩み、あなたのおきてを守って歩むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。