肉体に一つの棘

「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」

(コリント人への第二の手紙 12:9)

パウロは以下のように、遠慮気味に自分が受けたすぐれた啓示を誇ると言った。「もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。 」

すぐれた啓示は私たちが神のことをよりよく知るために素晴らしい者である。聖書にはすぐれた啓示が多く記されている。また聖書を読む時に神がさまざまな啓示を与えれてくださり、それは私たちだけではなく、他者の理解を助けるものとなる。

パウロはすぐれた啓示を受けて、それが正しく用いられるために試練が与えられてことに言及している。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」(コリント人への第二の手紙 12:6-9)

肉体の棘が一つもないことが望ましいと私たちは考えるだろう。主の働きをしている人は試練を通らされ、それが取り除かれることを切望する。しかし、その試練、その棘が私たちを高慢から守り、謙遜さを持ち続け、十分な神の恵みを受けて歩むことができる。

主の恵みを十分に受け、神の前に謙遜であり続けるために、主が与えてくださる試練を甘んじて受けたい。

愛する天のお父様、あなたからの試練さえもあなたからの十分の恵みであることを感謝します。あなたを信頼して歩みます。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。