公正な裁判

「パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。 もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。」(使徒行伝 25:10-11)

公正とは、公平で偏りないこと。裁判には欠かせないものだ。原告側が訴える理由を見極め、被告側を正しくさばき、公正な扱いをしなければ、人権が踏みにじられ、不当な扱いを受けることになる。

パウロはカイザルの法廷、つまりローマの法律にそって裁かれる場にいたのだが、原告側のユダヤ人たちは「彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない」(使徒行伝 25: 19)ことに関して不当な扱いをしようと企てていた。

パウロは何も罪を犯しておらず、ユダヤ人たちは「彼をエルサレムに呼び出すよう取り計らっていただきたいと、(ローマ側に)しきりに願った。彼らは途中で待ち伏せして、彼を殺す考えであった。」(使徒行伝 25:3)

だからパウロは「もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」と言って公正な裁判を要求したのであった。

パウロは自分の命を殺意ある者の手に易々と委ねることはしないだろうし、ローマ市民としてのプライドもあるだろうし、何よりも、生き延びてあらゆる人々にイエスキリストの福音を宣べ伝えたいと思っていたに違いない。

地上での裁判が公正なものであって欲しいが、少なくとも天の御国において私たちは神の前に正しくさばいていただける。神の公正なさばきを恐れず、安心となるような生き方をしたい。

愛する天のお父様、あなたは正しいお方で、私たちを公正にさばいてくださるお方です。ありがとうございます。あなたを信頼して歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。