神の臨在

「主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。」(レビ記 16:2)

主なる神がおられ、主が住まわれる場所、あるいは宿る場所のことを神の臨在という。神の臨在はいつも私たちの内にあり、またどこにでもある。これは当たり前ではなく特権である。なぜなら旧約聖書の時代はそうではなかったからだ。

旧約聖書の出エジプト記の時代、神の臨在は幕屋の中の垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』に現れ、主に選ばれ、主に仕えていた人たちでさえも、簡単に気軽に主の臨在に入ることは出来なかった。

主はアロンに、垂れ幕の内側の聖所である、『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないように警告した。死ぬことのないようにするためである。

主の臨在に不適切に入るなら、死が待っていた。それは私たちを神から遠ざけるためではなく、私たちが神と正しい関係を持つためであった。旧約聖書の時代は、動物の生贄を捧げ、罪のあがないをして、大祭司だけが年に一度神の現れる場所、神の臨在に近づくことができた。

今日、神の臨在に近づくためには、時間と場所の制約がない。私たちはいつでもどこでも主のおられる場所に行くことができる。それはイエスキリストが十字架の上で私たちの罪のために自ら犠牲となり、イエスを信じる者たちの罪をあがなってくださったからだ。イエスキリストを心に受け入れることで、イエスは私たちの心の中に入り、心の中に住んでくださる。だから何の制限も制約もない。私たちはいつでも神に祈り、どこでも主なる神と時を過ごすことができる。なんと素晴らしいことだろうか。今日も主に祈りたい。

愛する天のお父様、私たちが心を開き、あなたを迎える時、あなたはいつでもどこにでもおられます。イエスキリストを通して私たちはあなたのおられる所にいつでもいることが出来るようになりました。ありがとうございます。今日もあなたを賛美します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。