罪の赦し
「また一般の人がもしあやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをして、とがを得、 その犯した罪を知るようになったときは、その犯した罪のために供え物として雌やぎの全きものを連れてきて、 その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、その罪祭をほふらなければならない。 そして祭司は指でその血を取り、燔祭の祭壇の角にこれを塗り、残りの血をことごとく祭壇のもとに注がなければならない。 またそのすべての脂肪は酬恩祭の犠牲から脂肪を取るのと同じように取り、これを祭壇の上で焼いて主にささげる香ばしいかおりとしなければならない。こうして祭司が彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」(レビ記 4:27-31)
旧約聖書の時代、イスラエルの民は、罪を犯すと罪のための供物を持って祭司のところにいき、祭司にあがないをしてもらわなければ、罪がゆるされることはなかった。場合によっては即死だった。イスラエルの民でなければ、民としては神の前に罪の赦しはなかったため、個人的な関わりがない限り、異邦人は永遠のいのちとは無縁だった。実に悲しい状況だった。
しかし、今日私たちにはイエスキリストのあがないによる救いが与えられている。何か誤って罪を犯し、主のいましめにそむき、してはならないことの一つをして、とがを得て、罪を犯したかどうかに関係なく、すべての人が罪をもって生まれたことを認め、私たちの罪は主イエスキリストの十字架のあがないにより、イエスを信じる信仰によって悔い改めることで、罪の赦しと永遠のいのち、神の子どもとされる特権を得て生きていくことができるようになった。私たちの罪の問題は、このようにして主の前に解決し、さらに私たちは聖霊の力により、イエスキリストによって与えられた権威をもって罪に打ち勝って生きていくことができる。
なんと感謝なことだろうか!
今日私たちは、神の恵みのゆえに信仰によって罪の赦しを得ることができる。イエスキリストが私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったから、私たちは信仰によって赦される。もう償いのために何かをしなければいけない、何かしらの行為が必要というわけではない。
この無償で与えられた神からのプレゼントには、神の御子の十字架の死という代償が既に支払われている。私たちはここに神の愛の大きさを見る。神が愛であるとは、神が私たちのために命を捨てられたことに実証される。
神の愛の大きさと広さ、深さに感謝して歩みたい。
愛する天のお父様、あなたの愛の大きさと深さのゆえに私たちの罪は完全に赦されました。ありがとうございます。あなたに感謝し、信頼して歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。