冤罪になっても

「祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」。 ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、 もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。」(ヨハネによる福音書 19:6-9)

イエスキリストが自分を神の子としたことで、ユダヤ人たちは自分たちの律法によれば、イエスは死罪に当たると言った。だから祭司長たちや下役どもはイエスを見ると叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。

イエスが何か悪を行ったり、誰かしらに迷惑をかけた訳ではないのは罪を知らない方であるから、何一つ後ろめたさなど無い。ユダヤ教の指導者たちがイエスの働きに嫉妬していたため、イエスを十字架で抹殺することを謀ったのだった。

イエスが死罪に当たることは何一つしていないことは、ユダヤ地方を実効支配していたローマの法律によっても明らかだった。イエスが自らを神の子としたことについてはローマの法では全く問題なく、ローマ総督ピラトはこのことについて無罪だと判決を出している。

今日一般的に死刑判決が出るのは殺人犯たちであるが、ユダヤ人社会では神の子としたことが死罪に当たるという価値観であった。神を冒涜したと見られたのだが、イエスが神の子であることが事実であるとしたら、何も問題ない。

ピラトがイエスに「あなたは、もともと、どこからきたのか」と聞いても、イエスが何も答えなかったのは、たとえ冤罪であっても、十字架について全人類の贖いが父なる神の御心だとわかっていたからである。

世の中理不尽極まりない。正当に物事が運ばないことは山のようにある。しかし神は私たちに対して至って正当に扱い、いや、罪人の私たちに対して憐れみ深く接してくださる。

私たちの罪が無実のイエスを十字架につけた。イエスの十字架がなければ私たちへの贖罪はなかった。私たちに永遠のいのちを与えるほどに神の愛は偉大でおる。

愛する天のお父様、私たちの罪のために十字架で血を流し、私たちの身代わりとなって罰を受けてくださったあなたに感謝します。あなたが私たちを愛してくださったので、私たちもあなたを愛します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。