神のみわざが現れるために
「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:3)
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:2-3)
私たちの人生に起こる問題やチャレンジに対して、私たちは原因を単純化してしまう傾向にあるかもしれない。「罪を犯したから問題がある」「罪があるから災いや不幸が起きた」と考えるほうが楽だからである。
しかしイエスは、生れつき盲目なのは、本人あるいはその両親が罪を犯したからではなく、ただ神のみわざが、その上に現れるため」だと言われた。
原因という過去を探るのではなく、神のみわざという未来を見ることの大切さを教えられた。神は私たちの人生の問題を通して、神の奇跡や癒やし、問題解決を与えようとされている。
人生の問題の中に神が介入する余地を常に持つことが大切なのである。神が私たちの人生に入ってくださることで、私たちは救いを受ける。私たちの人生に神のみわざが現れることを心から願う。
愛する天のお父様、私の人生の中であなたの素晴らしい働きをなさり、栄光を現してください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。