主の訓練

「わたしの子よ、 主の訓練を軽んじてはいけない。 主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、 受けいれるすべての子を、 むち打たれるのである。」(ヘブル人への手紙 12:5-6)

主の訓練とは何か?それは神が私に与える信仰の訓練である。

将来を見通すことが困難な状況に陥ったり、辛く苦しい状況の中で、神に祈り神を信頼するのは、単なる宗教を逃げ場としていることとは違う。神を信頼することは、神と親密な関係を持つことであり、心を神に向けることであり、儀式などの形を持つこととは違う。

主は私たちに責めを与えられる。責めを受けると、私たちは今までの考え方や行いを改める。人生を変えることは訓練が必要とされるため、苦しさが伴うであろう。だが、私たちは神から責めを頂く時、それは不可能な変革ではない。だから、弱り果ててはならない、と言われたのだ。

鞭打ちは厳しい指導に思える。時代的に鞭打ちは社会的に受け入れられるものではない。体に痛みを与える体罰指導ではなく、心に痛みを与える指導である。もし私たちが主が与えられる訓練や指導を蔑ろにしたり、また軽んじるのなら、何かしらの痛みを伴う結果を受けることになる。

訓練による痛みを通るのか、あるいは実生活で痛みを通るのかは、私たち次第である。学生なら勉強、社会人なら研修、信仰者なら罪との闘い、主を信頼するという訓練がある。

主の訓練は怒りに基づいたものではなく、愛に基づいたもので、後になってから私たちに祝福と平安と喜びをもたらす。神が愛をもって私たちを訓練してくださるのなら、それは確かなものである。

主の訓練によって信仰の成長を成し遂げていきたい。

愛する天のお父様、あなたの訓練は私たちに祝福の実を結ばせます。あなたを信頼します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。