メルキゼデク

「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。」(ヘブル人への手紙 7:1-3) 

アブラハムがメルキゼデクにすべての物の十分の一を分け与えたのは、いと高き神の祭司であり、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福したことがある。

メルキゼデクはサレムの王であったが、父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司という、とてもユニークな存在であり、イエスキリストの型、予表とも言われている。メルキゼデクはおそらく実在したが、詳細はわからず、聖書はメルキゼデクとイエスの関連性について触れる。

イエスは神の御子であり、永遠の存在で、いつまでも大祭司として私たちのためにとりなして祈ってくださるお方であり、私たちを祝福してくださるお方だ。

私たちが神に十分の一をささげるのは、神を敬う具体的な方法の一つである。私たちが教会を通して神にささげる時、決して義務でも強要されるものではなく、自主的に心から喜んでささげることが大切である。なぜなら主は私たちの心に興味を抱いておられるからである。私たちがささげる時は、一人一人神に祈って決めることが大切だ。

私たちの主は良いお方だ。この方を今日も心から礼拝していきたい。

愛する天のお父様、あなたをほめたたえます。あなたは良いお方です。主イエスキリストの御名によって、アーメン。