心を守る

聖句:

“喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある。 悟りのある者の心は知識を求めるが、愚かな者の口は愚かさを食いあさる。 悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。心に楽しみのある人には毎日が祝宴。” 箴言 15章13~15節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:

箴言の著者は私たちの情緒的と知性的な人生の側面における心の役割について議論を展開しています。喜んでいる心は、顔色を良くするだけでなく、知識を求めることに私たちを駆り立てると言っています。この洞察は、感情的な幸福と知的成長との間に不可欠なつながりがあることに光を当たものです。

二番目の心は、砕かれ痛んだ心です。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊があります。多くの人が砕かれ痛んだ心の犠牲になっています。このような心を持った人たちは気持ちが塞ぎ、打ちひしがれた霊を持ってしまいます。このような心は時に希望が砕かれた時に生まれます。期待が裏切られ、計画が上手くいかず、希望が失せた時です。私たちはみんな、人生の中でこのような心が砕かれる瞬間を経験しています。

三番目は物事を見極める心です。このような心を持った人は、十分な情報に基づいた決断を下すための知恵を得るため、知識を求めます。物事を見極める心がなければ、心が壊れてしまうような決断をしてしまい、悲しくそして、打ちひしがれた霊を持つ結末が待っています。物事を見極めることが出来る心は何をいうべきでないか、いつ、何を、どのように語れば良いかをわきまえます。

最後に、心に楽しみのある人。楽しい心は、楽しい心とは、つねに心がお祭りを楽しんでいるようです。楽しい心の持ち主は、常に物事が好転していくのを目にしていきます。楽しい心の持ち主は、どんな状況にも希望を見出します。箴言の著者は、「心に楽しみのある人には毎日が祝宴」と書いています。

私たちは自分の心を熱心に守らなければなりません。その理由は、人生の様々な問題は心の中から流れ出てくるからです。自分の心は頼りないものです。聖書には次のようなことばがあります。”人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。” 人はよく自分の心に従ってと言います。聞こえは良いですが、私たちの心は当てになりません。私は、神様のことを常に認め、神様の導きに信頼していかなければなりません。

箴言 3章5~7節にはこうあります。

“心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。 自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。”

私に必要なものは、主により頼む心です。この心は、「自分の悟りに頼るな。 」と言ってきます。この心は私にこう語ります。「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。 」 そして、「自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。」と。

適用:

つい私たちは自分の心に頼ってしまいがちです。そのほうが簡単だからです。過去、私にも、幸せな心もあれば、傷ついた心もあり、時には物事を見極める心も、楽しい心もありました。主との旅路において、私は主の心に信頼することを学んでいます。常に主に信頼していく必要があるのです。主に信頼することを私の主との歩みの中でメインフォーカスとしていきます。

祈り:

イエス様、私がどんな心を持つべきかを今日教えてくださり感謝します。自分の悟りに頼ることなく、私の心を尽くしてあなたに信頼することを教えてくださり感謝します。どうか、自分の目に正しいと思うことを一旦横に置き、あなたにより頼むことを第一とすることができるよう私を導いてください。あなたが私を導いてくださるように、あなたに目を向けます。あなたの絶え間ない導きと祝福に感謝です。あなたのみ名によって祈ります。アーメン!