主の恐れは知恵の始まり

聖句:

“主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年が加えられるからだ。 あなたが知恵を得るなら、自分のために知恵を得ることになり、嘲るなら、自分だけが責めを負うことになる。” 箴言 9章10~12節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:

知恵、知識、そして、悟りの三つは、人の人生に変化をもたらす宝です。箴言の著者は主の恐れが、その宝への入り口であるとこの三つに光を当てています。これらは自分で作り出せるものではありません。聖なる方からの賜物、贈り物です。この深淵な洞察は、私たちがこれらの賜物を熱心に求めるため、私たちを元気づけ、私たちの神様に対する崇敬の念を深めてくれるべきものです。この著者はこれらの賜物を求めるために行動を起こしなさいと呼びかけています。これらの賜物は、私たちの霊的な歩みにおいて私たちを動機づけ、力を与えてくれるもので。

知恵と知識は互いに関係しているものの同意義ではありません。聖書的な知恵は、何が真理で、正しく、そして、良いものかを見極め、判断するための能力です。知恵は私の神様との関係から流れ出てきます。知恵は、私の神様との関係の中で常に抱いていなければならない神様への畏敬の念から始まります。この関係性は、私が知恵と知識と悟りを追い求める中で私を支え、導いてくれます。

知識は経験や論理的思考から得られる情報です。ですから、知識は知恵がなくても存在しえます。知識が豊富であってもその人が必ずしも知恵者だとは限りません。どう何かをしたり、どう何かを使ったりするかを知ることが知識であることを学んできました。しかし知恵は、何かをいつ使うのか、何かをいつするのかを知ることです。

箴言の著者は悟りについても言及しています。私が何かを知ったり、何かをしたいと思った時に私がまずすることは、それを神様のみ前に持っていくことです。神様からの方向性を理解する時、私は主が示されたことや、導かれていると感じたことに基づいて行動するために必要な悟りを得ます。

聖書にはこのようなみことばがあります。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 」知恵には二種類あります。世の知恵。それは人間的で悪魔的な理屈と影響に根付いたもの。そして、神様からの知恵。それは神様に根を張っている知恵です。 知恵によって、人の日は多くなり、人のいのちの年が加えられます。そして、知恵のある人であれば、自分のために知恵を得ることになります。

さらに、この箴言の著者はもう一つの種類の人について書いています。嘲る人です。それは、人を冷たい目でバカにする人のことです。そのような人たちは神様の知恵を嘲笑います。このような人は、神様の知恵に関心もなく、彼らの人生で神様が働かれていることを認めることはありません。その人の日は少なく、いのちは短くされます。そして、人生の責を負うことになるのです。

適用:

私自身の人生において、知恵が必要なのは分かっています。 しかし、まず私が学ばなければならないことは、主を恐れることです。私は然るべく主を恐れているでしょうか?私が人生でまずしたいことはこれです。主の恐れの中で私は生きていきたいと思っています。自分には理解できないことでも、神様が私にして欲しいと願われていることをするに従順でありたいです。神様から願われていることが難しく思えても、それが神様にとって大切なことであれば、それをしていきたいです。今日、知恵、知識、そして、悟りは、神様への畏敬の念を持って、神様に従順に生きているこどもたちへの贈り物であることを再確認させてもらいました。これこそが私が望んでいることです。

祈り:

イエス様、あなたのみことばに従いあなたへの恐れと畏敬の中で生きていくことを願う、あなたの子どもとなれるよう助けてください。あなたの恐れの中で生きることができるよう、私の人生をあなたに委ねます。あなたにより頼み、チャレンジがやってくる時も耐え忍び前向きでいられるよう私を助けてください。私がする全てにおいてあなたをいつも認めることができるよう私を助けてください。あなたに目を向けます。アーメン!