主からの報い

「それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。 それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである。」(列王記上 15:4-5)

主が私たちに報われる時、私たちはそこに原則を見出しても、化学式のようなモノに当てはめることはできない。

ダビデに対する神の扱いは祝福に満ちていた。ダビデは完全な人間ではなく、私たちと同じように罪人であり、失敗を犯した。ダビデはある時、ヘテびとウリヤの妻に性交渉を強要し、妊娠が発覚した後、ウリヤを戦闘の最前線に送り、命を落とすように仕向けた。自分の罪を隠蔽するためであった。

ダビデは自分の犯した罪の代償を払った。「…主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。七日目にその子は死んだ。」(サムエル記 第二 12:15,18)

しかし聖書によると、「ダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかった」(列王記上 15:4-5)とある。

たとえ私たちが罪を犯しても、主の憐れみによって赦され、その後、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかないなら、私たちや周りの人々に祝福をもたらす。「その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。 」

主の祝福には条件付きの場合と、無条件の場合がある。それを決めるのは主である。主にすべてのことにおける主権があるからだ。

主の報いは主が決められる。主は祝福しようと思うものを祝福してくださるからだ。だから主の憐れみに感謝して歩みたい。

愛する天のお父様、あなたの恵みと憐れみを感謝します。あなたに従って歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。