罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる。
聖句: 20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
(ローマ人への手紙 5:20—21)
観察: パウロは、「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。」と言っています。その意味するところは、律法が私の罪をあらわにし、私は決して義なるものではないことを知るということです。私には罪があります。律法は私に一貫性がないことをあきらかにします。神様の真理に逆らう私の性を暴きます。ですから、自分の力では到底律法を守っていくことはできません。律法が暴きあらわにする自分の罪に対して私は無力です。私には到底かないません。
しかし、イエス様のことを神様に感謝します。イエス様は律法を無効にするために来られたのではありません。むしろ、私が神様の義をまとうために、律法が暴く私の罪を一身に背負うために来られたのです。パウロはこう付け加えています。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 」 私の人生で暴かれる罪が大きければ大きいほど、神様の恵は私に対して大きくなります。罪は常に死をもたらします。罪によって人は常に罪悪感に苛まれます。罪は私と神様との関係を切り離そうとします。
しかし、恵は常に命と自由をもたらしてくれます。 恵はキリストを通じ、義と永遠の命を人にもたらしてくれます。私はこの一節が大好きです。なぜなら、私が罪に陥ってしまった時に、神様は行動を起こしてくれることを、この一節は私に思い出させてくれるからです。私が罪と闘っているときはいつも、神様がその恵みの力で、その瞬間に耐えられるような備えをすでに用意してくださっていることを思い起こさせてくれます。 罪に陥ったとき、私たちは決して自らを助けることはできません。私たちは罪に陥ったとき、自分自身を解放する力を持っていません。しかし、私たちには、私たち律法を犯してしまった人たちに対するみ父の恵みであるキリストがいます。イエス様は十字架にさえかかることを厭わず、従順であられました。私の罪が許され、永遠の命へと導かれていくことを見る喜びのために、十字架を耐え忍ばれたのです。
パウロはこう記しています。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」私を天国の家に連れて帰るという神様の永遠のご計画に感謝です。
適用:詩篇のこのみことばを思い出します。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 」 (詩篇32:1—2) 私の罪がイエス様によって取り除かれ、幸せな人生を送ることができることをいつも疑うことなく知ることができるようにと、私はこのことを心に刻んでいます。
祈り:
天のお父様、私の罪が増し加わるところには、あなたの恵が満ち溢れることを私に教えてくださり感謝します。どうか私があなたの恵を当然のものと思うことがないよう助けてください。罪がまし加わる時、私があなたの元に駆け寄り、あなたの恵が私の全ての罪を覆うのに十分であることを知ることができるよう私をどうか助けてください。今日あなたの恵に目を向けます。アーメン!